めのキッチンの美味しい生活

めのキッチンで実践して効果が出た「家庭でできる通風ケア料理」と「プリン体の減らし方解説」。また、普通食の創作料理を紹介しています。

イタリア料理の多い理由#鮭と野菜のラザーニャ#よもやま話

世の中の人はお正月の和食が続くと、すぐ飽きてしまうご様子です。

我が家はお節も何も、それほど普段と変わらない料理。お節だからと奮発するのはプリン体の多い海老ぐらい。

それでもご馳走に感じるのは、いつもよりたくさんの食材の煮物を一度にあれもこれも一口ずつ食べられるから。

嫁いでから諸事情あって外食をほとんどできない我が家では、いろいろな料理を少しずつという、これがなんとも贅沢です。

ただ、なんとか家族が別々に食べられる環境にしたことで、私の元気の素、イタリアの懐かしい料理や創作イタリアンも食卓にのせられるようになりました。

皆さんの眼がお節や和食に飽きたでしょうから、昨年に作ったものですが紹介します。

こんがり焼けた、ラザーニャ。

鮭と野菜のラザーニャ

鮭と野菜のラザーニャ
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鮭と野菜のラザーニャの層

鮭と野菜のラザーニャの層

具材をみじん切りでソース状にしないでゴロゴロと食感を残して層にして焼いたのですが、一応は層が崩れずにできています。

鮭の層、ブロッコリーの層、キャベツの層などなど。(何を入れたか忘れちゃいましたね)

お節料理もテンション上がりますが、イタリア料理は全然別なテンションの上がり方です。

お節は達成感と「ねばならないこと」を終えたホッとする感じ。

イタリア料理は、自分の奥にある本当の気持ちを奮い立たせ、元気が出る感じ。

私はイタリアで生活するような心持ちで、自分らしさを出して暮らしたいです。

だから、あの空気を思い出し、相手を尊重し自分も尊重される状態で、心が自由であたたかい状態で生きる。

そういう状態が一番心地よくて、本当に私らしい状態です。

「普通はこうだ」「これが正しい」「ねばならない」「こうあるべき」とやたらアドバイスや知識を押し付けられる日本にあっても、失いたくない心を思い出させてくれます。

人は「心」から生きるエネルギーが湧いてくるものです。

アドバイスなんて人を潰すに等しいぐらいの、最低な行為です。我慢させるのも最低。

日本は先進国の中でも心を病む人の数がとても多いです。

それは他者を自分勝手な正誤や理想で教育や矯正しようとする人が多いから。理屈をごねる人が多いから。役割、肩書重視して上から目線の人が多いから。

一言で言えば「人を(心を、気持ちを、感情を)尊重しない」人が多いから。

私に対する時に心を潰す行動傾向の強い人たちに囲まれてきたので、今も他者の発言にすぐに自信を無くし、瞬間的に自分が間違っていると思おうとする弱い自分がいます。

周囲の失礼で心無いアドバイス好きに潰されないようにしたい。

自分がやり遂げたことを正当に認識し、少しは自信を持ち、自分の心がプラスエネルギーを順当に生み出し循環させる。自分らしい「ふつう」の状態で暮らしたい。

私の過去と今の状況は、多くの言葉で丁寧に説明したとしても、本当の意味では誰にも想像も理解もできないでしょう。でも、相変わらず理解者がいない状態で、私はまだまだ長い「奴隷解放戦線」で闘い続けねばならないのです。

私は不幸を売りにしているのでもなく、お料理好きな幸せで良い主婦を仮面を被っているつもりもありません。私は偽ることが苦しいと感じるので、事実をありのまま、思ったまま、感じたままに出すのが基本です。

例えばこのブログでも「料理嫌い」と何度も書いていますが、信じない人はその人の勝手な思い込みのせいであって、こちらのせいでは無いです。

私はすごいことを求めているのではなく、「人でありたい、人として扱われたい」という願いに向かって、それを手に入れるためになんとかこの世に踏みとどまって生きてきただけなのです。

ですから、事情や原因は千差万別でも、人として自分らしく生きたい人を応援したくて、上から目線で教えて潰しにかかるような心無い人から受けて傷つく人を少しでも減らしたくて、カラーセラピーやカウンセリングの資格を使って、これからまだまだ立ちはだかるいくつもの岩山を穿ち、社会復帰して活動しようとしているわけです。

私はずっとイタリアの人の心を尊重する文化土壌の精神に支えられてきましたし、これからもそうだと思うのです。

イタリア料理を多く作るのは、単純に娘が好むせいもあります。楽なせいもあります。

が、何よりも、自分が自分らしさを失わないためです。

あ~、なんだか、今年は年末年始が重い話ですね。でも、初心を忘れず、決意を何度も何度も確認して、認識して、言い聞かせて……。そうやって進まないと私の願う未来はやって来ないのです。そうしないとここまでのことは成し遂げられなかった。

かなり前進しましたが、まだ「人でありたい」願いの途上ですから先は長いです。