終戦の日。かつて、戦争を忘れないためにとデパートの飲食店ですいとんをメニューに加えていたり、あちこちですいとんを振る舞うイベントがありました。
今でもあるのかもしれません。
お金を払ってすいとんを食べる。
普段、贅沢をしているという認識があるほど経済的に今より安定していたのかなと思います。
今はそんなゆとりのある人は少ないかもしれません。
娘がギリギリまで寝ていて、無理矢理に体を起こしてバイトに行きます。何も食べずに行く日も多いです。
冷蔵庫もスカスカ。
終戦、そして水分と栄養が一緒に摂れる、娘の好物。
野菜はキャベツと人参とキュウリ。冷蔵庫にあった物。
なんとなくモチモチな気分でしたから強力粉。つるんと食べたいので濃度は薄め。
戦時中ではあり得ない、出汁と醤油の香り。
我が家ではすいとんは嬉しいメニューです。
冬になると寒さをしのごうと女子ご飯にすいとんの頻度が上がる我が家ですが、夏は
たしか、終戦の日のすいとんが流行った時に一度作っただけだと思います。
たとえ終戦の日だろうと、お隣さんにすいとんでご飯というわけにはいきませんでしたから、それきり作れなくなりました。
時間ギリギリ。何も食べずに出て行こうとした娘。テーブルの上のこの程よく冷めて食べごろのすいとんを見たら、食べたい欲求が出たようです。
座るゆとりもなく、立ったままガガーっとかきこんで、慌てて出て行きました。
人よりなぜか弱い体、なぜか強い精神力。危なっかしいギリギリのバランスで強引に日常生活(社会生活)を保とうとしているので、若い頃の自分を見ているようです。
あ、でも、私はご飯作ってくれる人はいませんでしたっけ。私のほうが精神力が強いようです。
過酷な状況でも生きる力を失わない人間という生きものですが、残酷過ぎる生きものでもあります。自分のことすらいじめられるし、他者をいじめるのは簡単です。
自分の命も他者の命も奪うことができます。
人が人の命を奪わなかった日は一日たりとも無いでしょう。
言葉を言いつくろっても、時代のせい、誰かのせい、理念のせいにしても、人の命を奪うという事実は変わらない。
他者を真に尊重する心を人類は理屈や勉強としてではなく、心の奥底にしっかり抱いて生きる能力も持っている生きものだと思うのですが……。
節目を大切にすることも必要だけど、日常、日々の生き方こそが大切。
そんなこんな、毎年、頭がグルグルする終戦の日。